一部分にとらわれない
福岡というと、全国の多くの人が「博多」が県庁所在地と思われる事も多いとか。
確かに、福岡県庁の正式な所在地は「福岡市博多区東公園」なので「博多区」という意味では「博多」なのかも知れません。ただ、福岡県民からすると「福岡の県庁所在地があるのは『福岡市』」という感覚。「博多区」は「福岡市の一部」です。愛知の県庁所在地を「名古屋」はなく「中区三の丸」と言っても誰も分からないはずなのに、福岡においては「博多」は通ってしまうんですよね。
そんなどうでもいい事はさておき、「一部」といえば、こんなthredsを見つけました。
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結局の所全体の連動が課題となる
確かに、一部分によってすべてが解決するという事はあまりないですよね。
私は「弓道」も併修しているのですが、特に弓道は「弓手の押しが」とか「足踏みの角度が」とか、部分的に指摘・指導される事は多いです。ただ、その一部分が修正されても的に矢が当たる(弓道では「中る」と表記します)ようになる事はほぼありません。
合気道においても、例えば「逆片手取で転換する時は、掌下向きのものを上向きに」という“部分”の動作があったとしても、そうすれば転換がすべからずスムーズに行くという事はありません。あくまでその部分にのみフォーカスして指摘されたものであり、結果に対しては一部の要素にしか過ぎないからです。
また「一つの部分をやろうとすると、別の部分が崩れる」という事もしばしば。姿勢良く動作をしてたのに、手の動きを修正しようとしたら姿勢が崩れてしまった…という本末転倒な現象もよく目にする光景(自戒の念を込めて)。
とはいえ、小さい事でも丁寧に詰めていくことで、全体が理想に近づいていくという事も嘘ではないと思います。それって「帰納法」か「演繹法」かの違いとも言いかえられるかも知れません。
「どちらの方法が正しいか、間違いか」ではなく、お互い相関関係があるものとして、どちらの視点にも立てるようにしたいものですね。
そう考えると、経験のある先生方の表現がどんどん「抽象的」になって行くというのも納得できる気がします。別に話を難しくしようとか、神秘的にしようとかいう意図ではなく、全体を一つとして表現しようとすると抽象的にならざるを得ないのでしょうね。